後○○天皇

歴史を見ておりますと「後」なんとか天皇という方々が出てきます。特に有名なのは「後醍醐天皇」です。後醍醐天皇の前に醍醐天皇という方がおりまして、その治世を「延喜の治」と呼びます。あとは「後白河天皇」「後鳥羽天皇」あたりでしょうか。

なぜ「後」なのか、その問題を緊急徹底究明いたします。

追号

天皇の名前は一般的には、死後におくられるものであり、これを「追号」と呼びます。ここで、いや「追号」でなく「諡号」というのもあって…と話を始めると長くなりますし、面倒ですので、とりあえずこの記事では全て「追号」と呼ぶことにいたします。厳密には異なります。

明治以降は元号追号が一致しており、「昭和天皇」は、元号「昭和」の時代の方です。しかし、それ以前はそもそも一世一元でもありません。明治天皇の前の孝明天皇は、弘化、嘉永安政、万延、文久、元治、慶応*1元号の時代が在位期間です。

崩御した天皇への追号

天皇崩御した後に、追号をおくりますが、今上天皇には「平成」がおくられることはほぼ間違いないと思います。

例えば昭憲皇太后(明治天皇の皇后)*2貞明皇后(大正天皇の皇后)、香淳皇后(昭和天皇の皇后)も追号です。香淳皇后が生前からそう呼ばれていなかったことは最近の方もご存じかと思いますが、天皇追号もそれと(本来は)同等です。

崩御した上皇への追号

在位中に崩御した天皇というのは、過去を振り返れば必ずしも多くありません。
むしろ、退位して「上皇」となり(あるいはなっていないけれど)、「○○院」の追号が送られた、そして逆にこの名前を用いて「○○天皇」と呼ばれるようになった人もいます。むしろ多いといってもよいでしょう*3

重祚追号

日本では歴史上、二度の重祚がありました*4が、彼ら(皇極・斉明、孝謙・称徳)には二種類の追号が贈られています。明の英宗は重祚していますが、追号*5は区別されません。ただし、元号で正統帝、天順帝と区別されます。このあたり、日本と中国の方式は異なります。

加後号

さて、ここで本題に戻って「後」です。このように、既に追号されている名前に「後」をつけるものを「加後号」と呼びます。

加後号の例を全て挙げておきます。脚注に、私の知る限り(調べるのが面倒だったので)、何をやった人かを書いておきます。

以上、28人です。(北朝含む。)

その他の「後」

天皇に即位せずに上皇待遇となり「○○院」と追号が送られた人もいます。院政を行った人物さえいます。

臣下である足利義満でさえ、上皇を(死後)おくられかけています。(源氏物語でも、冷泉帝は父である光源氏上皇を与えており(六条院)、臣籍に下ったものに上皇を与える「前例」はあったのかもしれません。もっとも、(お話ですが)光源氏天皇になることを求められたほど。)

以下が全てです。

ここでは、二人の「後」である、後高倉院と後崇高院がいます。これをあわせると「後」は30人いることになります。

深草はないのに、後深草はある

さて、よく見ますと、リストでは「後深草」と対応するものとして「仁明」が書いてあります。このようなものをリストアップしてみましょう。

  • 深草-仁明
  • 後小松-光孝
  • 後柏原-桓武
  • 後奈良-平城
  • 後水尾-清和
  • 後西-淳和

これらは全て、過去の天皇の異名を使っています。異名というのは住んでいた場所や御陵・元号などからつけられるものであり、正式に追号されたものではありません。(追号も住んでいた場所や御陵からとられることがあります。)

それぞれのエピソード

いくつか、有名なところを挙げてみましょう。
私の記憶に頼っている部分もありますが、Wikipediaも参照させていただきました。

後鳥羽天皇

後鳥羽天皇は、承久の乱で流された後に、その地でなくなり、顕徳院追号されました。すなわち、「顕徳天皇」となるわけですが、さらにその後おくりなおされて「後鳥羽院」と変更されました。そこで、「後鳥羽天皇」と教科書に出てくるわけです。これは少し不思議な話です。

「○徳」は、怨霊を恐れて贈られたものであり、「崇徳」(保元の乱)「安徳」(壇ノ浦で死亡)「順徳」(承久の乱佐渡へ)と、いかにも恨みをもっていそうな方々に贈られていますが、顕徳もこれだといわれています。

後醍醐天皇

後醍醐天皇は、醍醐天皇の「延喜の治」における天皇親政を理想としており、自分でつけた名前です。これに対して、北朝側では「元『徳』」を贈るという話もありました。

後陽成天皇

後陽成天皇後水尾天皇の父親になります。後水尾天皇は父にこの「後陽成」の名を贈りました。

陽成天皇は(真偽は別として、その当時)暴君として知られており、普通に考えるとその名を父に贈るというのは考えにくいのですが、これは父子の確執によるものです。ちなみに、後水尾天皇のもととなる「水尾帝」は陽成天皇の父である清和天皇にあたります。

いい加減?

しかし、結構いい加減なものだと思わないこともありません。昔は元号天皇も頻繁に変わっていましたので、そうだったのかもしれません。「後○○」なんていう付け方は、「とりあえず、在所の位置からつけてみました。もう、昔にいたので『後』をつけておきました。」程度なんじゃないかと、想像してしまいます。

まめ知識

天皇なのか、天皇でないのか?天皇であったのに天皇でなくなったり、あるいはその逆もあります。

歴代天皇として数えられなくなったのは、神功皇后北朝の歴代天皇(光厳、光明、崇光、後光厳、後円融)です。日本武尊聖徳太子なども、天皇に加える人がいます。

弘文天皇(39代)

有名な話ですが、壬申の乱で敗れた大友皇子が即位していたかしていなかったかというものです。結局明治になって「即位した」ということにして、39代としたうえで「弘文」の名前が贈られました。(それに伴って以降の代数がずれます。)ただし、同時に神功皇后が即位しなかったということになり、さらに後述の仲恭天皇が加えられています。

淳仁天皇(47代)

淡路廃帝です。大炊王でしたっけ。舎人親王の息子です。光明皇太后のもとで力をつけた藤原仲麻呂のもとで孝謙天皇に次いで即位しました。その後、藤原仲麻呂の乱において、仲麻呂は都から連れ出すことに失敗しました。(確か代わりに塩焼王を連れていき、次代の帝に擬した。)

仲麻呂は敗れ、天皇は淡路に流されて譲位され、「淡路廃帝」と呼ばれます。孝謙天皇重祚して称徳天皇となり、道鏡の時代が始まります。淡路廃帝は明治になって「淳仁」の追号がなされました。

ちなみに、私はこの人がお気に入りです。小学館の「まんが日本の歴史」の中で「淡路に流されるのね。とほほ…。」といいながら歩いているところが好きなのです。

仲恭天皇(85代)

順徳天皇の息子で、承久の乱の直前に即位した天皇です。二ヶ月半後に承久の乱での後鳥羽院の敗北に伴って退位させられました。九条廃帝と呼ばれます。

明治時代になってようやく即位が認められ、「仲恭」が贈られました。これによって、仲恭以後の天皇は代数が1ずつ増えています。

長岡天皇(なし)

天武天皇持統天皇の間の息子の草壁皇子です。持統天皇はどうしても皇位につけたかったので、天武天皇死後、大津皇子らを排斥しましたが急死します。つなぎとして即位していた持統天皇は、草壁皇子の息子の軽皇子(文武天皇)が成長するのを待つこととなりました。

この草壁皇子についても追尊として長岡天皇岡宮天皇と呼ばれます。もちろん、歴代天皇には含まれません。

崇道尽敬皇帝(なし)

有名な舎人親王です。天武天皇の皇子であり、日本書紀に関わっています。

彼の息子が淡路廃帝である淳仁天皇となったため、「崇道尽敬皇帝」が贈られました。これには、孝謙上皇が強く反対しましたが、光明皇太后は賛成しました。

春日宮天皇(なし)

先ほど知った「天皇」です。天智天皇の皇子である志貴皇子ですが、死後「春日宮天皇」となります。

称徳天皇死後、天智系から高齢の光仁天皇を迎えることになりました(まあ、これは藤原百川や永手によるのですが)が、その際に父である志貴皇子天皇を追尊されたのです。

崇道天皇(なし)

これは早良親王であり、「怨霊」としても有名な人です。

桓武天皇の弟、光仁天皇の息子であり、皇太子として期待されていました。しかし、大伴氏、佐伯氏らが関連(首謀者は大伴家持と見られる)していた藤原種継暗殺事件で、早良親王がその事件と関わっていたと見られ、流罪となりました。これが無実であるという説もあります。
いずれにせよ、早良親王は罪を問われ、食べ物を絶って憤死します。

その後、皇太子(後の平城天皇)の病気などが起き、これは早良親王の怨霊であるとされました。桓武天皇早良親王の霊を慰めるとともに、長岡京を捨てて平安京に遷都することとなります。また、早良親王には「崇道天皇」が追尊されます。

慶光天皇(なし)

119代光格天皇の父ですが、父が臣下となるため、父に上皇の位を与えることとしました。これには後高倉院のような先例がありました。しかし、これは寛政の改革で有名な松平定信によって阻止されます。これを「尊号一件」と呼びます。(ちなみに、松平定信は将軍徳川家斉の父、一橋治済を大御所待遇とすることにも反対し、定信の失脚につながります。)

で、その尊号一件上皇の位は得られなかったのですがそのおよそ100年後、明治天皇によって「慶光天皇」と「上皇」を贈られます。

その他

熊沢天皇は今どうしているのでしょうか?

*1:正確に言えば、明治天皇在位期間にも慶応は入っております。

*2:なぜ、昭憲皇后ではないのかよく知りませんが。

*3:ただし、退位した後でも「○○院」ではなく、「○○天皇」と追号された人もいます。

*4:後醍醐天皇光厳天皇を挟んで重祚したという説もある

*5:追号じゃないけれど、とりあえずそういうことで。

*6:一条天皇の息子で藤原道長の娘、威子と結婚。

*7:定子(皇后)や彰子(中宮)を持つ。

*8:全く知らない。

*9:村上天皇の息子だったか弟だったか? 朱雀帝は光源氏の兄ですね。

*10:全く知らない。

*11:全く知らない。お話では光源氏の息子が冷泉帝ですね。

*12:荘園整理令で有名。藤原氏の影響力をそぐ。

*13:目が悪いのなんのといって、藤原道長に退位させられた。

*14:こいつを知らない人はもぐり。平治の乱平清盛の起用、対立、平氏追討、義経・頼朝との関係、大仏開眼供養、白拍子、今様…。

*15:摂関の影響を受けない「院」を確立。

*16:承久の乱新古今和歌集隠岐に流され、後に怨霊としてまつられる。顕徳院

*17:白河の孫、後白河、崇徳、近衛の父。白河法皇に退位させられ、崇徳天皇に譲るが、その後院政を行う。保元の乱は、彼の死を契機とする。

*18:全く知らん。

*19:白河の息子、鳥羽の父だが、すぐに死んだのじゃなかったか?

*20:彼の息子から持明院党と大覚寺党に分かれる。院政を行った。

*21:桓武天皇の息子だったか?兄である平城天皇藤原仲成薬子の変で追いやる。

*22:後嵯峨の息子。持明院党の祖。弟の亀山天皇に譲位を余儀なくされ、鎌倉幕府の力で両党からの交互即位となる。

*23:嵯峨の息子。藤原良房承和の変で、文徳天皇を皇太子とする。深草院の名前を持つ。

*24:ていうか誰?

*25:一度臣籍に下っていたが、藤原基経陽成天皇を退位させて、異なる系統(光孝系)から即位させた。醍醐天皇の父。菅原道真を重用したが、後に醍醐天皇の時代に道真が流罪となり、その時に内裏へ入ることを拒まれる。

*26:そんな人いたんですか?

*27:ふーん。

*28:知りません。

*29:後白河の子供ということは知っている。

*30:一味さんざん北条氏。建武の親政、足利尊氏との対立、吉野の南朝

*31:宇多天皇の息子。菅原道真太宰府に左遷し、その後「道真のたたり」で息子が多数死ぬ。天皇も病気がちになる。しかし、その後も長く行き、醍醐天皇の系列が続くのであった。延喜の治。

*32:南朝の義良親王

*33:村上源氏の祖。醍醐天皇の子。

*34:亀山の名をつけるだけあって南朝側。

*35:大覚寺党の祖。後嵯峨の子。

*36:どちら様でしたっけ?

*37:後醍醐天皇が幕府によって退位させられたことによって即位(したが、後醍醐によって否定される)。更にその後、建武の親政時には上皇待遇。足利尊氏が挙兵した後、尊氏に新田追討の院宣を出すことによって尊氏の「朝敵」の汚名を晴らす。その後南朝に軟禁される。

*38:そうですか。

*39:確かにいたなあ…。

*40:南北朝和解。一休さんの父(という異説)。結局北朝側から天皇は出る。

*41:小松帝。藤原基経陽成天皇を退位させて即位した。「君がため 春の野に出でて…」

*42:あ、あれだね。足利義政に詩を送って贅沢を戒めた人。花園の名前を次いだのは、花園が持明院党だからだろうな。

*43:へー。

*44:存在も知りませんでした。

*45:後鳥羽の息子、順徳の弟。父や兄が流されるのを知って、承久の乱に関係しなかった土御門上皇も自ら流されたのであった。

*46:誰ですか?

*47:知らない人はいないのではないだろうか?天智系の光仁の息子。長岡京平安京を作り、蝦夷討伐など。早良親王を流してたたられる。柏原帝。

*48:戦国時代の人だということは知っている。

*49:桓武天皇の息子。嵯峨天皇の兄。奈良帝。譲位して「奈良」の「平城」京に移る。後に藤原仲成、薬子兄妹とはかり、復位を目指して平城京への遷都を命じたが、嵯峨天皇は先手を打ち敗北。

*50:秀吉が聚楽第に招いたのでしたっけ。

*51:藤原基経によって素行が悪いとして退位させられ、光孝天皇が即位。その後、宇多天皇の時代にも上皇として復権を目指す。「筑波嶺の みねより落つる みなの川…」

*52:紫衣事件、幕府との対立で明正天皇に譲位。院政

*53:九才だったかで藤原良房の力で即位。清和源氏の祖。水尾帝。

*54:何かやったの?

*55:よく知りません。この人も吉野に軟禁だっけ?

*56:知りません。

*57:西院天皇

*58:現在のところは最後の女帝。

*59:へー。

*60:ほーー。

*61:ふーーん。

*62:いわゆる尊号一件でおくられなかった。後述される。