天皇家

しかし、「天皇家」って面白いですね。記紀をそのままもってくるならば、2700年近く前から続いております。実在性が高いといわれるのは応神天皇以降ですが、そこからでも1700年程度となりますし、さらに記紀を信じないことにしても、さすがに天武朝以降は否定者もいないでしょうから、1350年ほど遡れるわけですか。

後○○天皇について書いてみたので、少しだけ「天皇家」について思ったことを書いてみます。

最初から書いておきますが、「万世一系守るべし!」とか「人間は平等!天皇制打倒!」などといった政治的な主張を書いているわけではありません。

歴史の話と、旧皇族の話です。

天皇家尊いのか?

天皇家尊いのか?」という問いにはいくつかの答があるかと思いますが、個人として尊いと思おうと思うまいと現代では自由ですので、ここでは「天皇家はなぜ尊いとされているのか?」という問いとしたいと思います。

「遺伝的に神武天皇がスーパー遺伝子を持っていたから」などということはないでしょうし、仮にそうだったとしても、それを受け継いでいる男系は他にもいるのではないでしょうか。従って生物学的にどうこういうものではないと思います。(というか、当たり前です。)

私の中で出している結論は「お話として尊いとされてきたから」というものです。お話や伝統というのは、作られたときには価値を持ちませんが、それが1000年続くと価値を持ちます。神社でお参りするのに、科学的な意味を求めても仕方がないのと同じで、「そういうものだ」とされてきて、それが歴史を持ってしまったので、既にそのものが尊いとされるようになったのでしょう。

逆にいえば、お話や伝統を崩しすぎると、それは価値を失いかねないかもしれません。万世一系だの宮中祭祀だのといったものは、お話の小道具であり、そのものに意味があるのかといえば、本質的にはないのでしょうが、「ずっとやってきたから」というその事実そのものが意味を持ってしまったということかと思います。

天皇家は…」という問いでしたが、そもそも「尊い」とされるもののほとんどはこれではないでしょうか?

天皇は飾り物

日本の歴史上で天皇が権力を持っていたことはあまりありません。

そもそも武家が権力を握った鎌倉時代以降は朝廷には権力はありませんでした。では、それ以前は権力を持っていたかといえば、せいぜい平安中期までというのが実際のところでしょう。摂関政治院政では天皇は飾り物に過ぎません。武家政治下においても、朝廷が行う事項もありましたが、天皇家の中心は院であり、天皇自身は皇室や朝廷内のことでさえままならなかったのです。もちろん、中には天皇親政もありますが、これが例外的な事象といえます。

明治以降は、天皇は院でなく藩閥政府、その次には憲法によって縛られます。天皇親政をもくろむ連中も多かったのですが、明治憲法を作成した伊藤博文の立場からは、それは容れられるものではなかったでしょう。

そのような歴史をもとにして「象徴天皇制はむしろ日本の伝統にのっとったものだ」という言い方をする人もいます。

さて、天皇から「権力」を除くと、残るのは「権威」となります。先ほど書いた「尊い」と社会的にされる感情です。このような、権力と権威の分離は面白い現象です。征夷大将軍上皇も、天皇の権威の上に成立しているのにもかかわらず、天皇自身は権力を持たないのです。「これはよいことだ」といっている人もおり、例えば三笠宮家の寛仁親王(がんの手術をよく受けている方です)です。

万世一系

さて、天皇家は「万世一系」とされ、先の皇室典範改正問題においてもよく持ち出されました。八木秀次さんのような方が強く「神武天皇Y染色体が…」と主張しております。

神話上の神武天皇を持ち出すのはどうかと思いますが、こういったものは先に書きましたように「お話」ですので、そういう伝説なのだということで理解することにしています。(理解した上で、それに賛同するかどうかはおいておきます。)

では、歴代の天皇の中で、遠縁から呼んできた、あるいはそもそも一系でないと考えられているのはどこなのかを書いておきます。もっとも、后が産んだ子供が本当に天皇の子供かわからないと言い出すと、色々と疑えると思いますが、確かめようがないのでそれは省きます。

継体天皇(26代)

まず、代表的なところで26代継体天皇です。男大迹王とも呼ばれます。これ以前も崇神や応神などで王朝が変わっているという話もあるのですが、そもそも「存在するんですか?」という話があるため、実在性の高い継体天皇から始めてみたのです。

25代武烈天皇の死後、物部麁鹿火大伴金村らは次の大王をどうするかで悩みましたが、男大迹王が応神の子孫(五世)であると主張してやってきたため、彼を次の大王と認めたのです。継体天皇の後は、仏教伝来で有名な欽明天皇その他、系図がはっきりしてきております。

さて、ここで継体天皇の出自が本当に応神五世なのかという話が当然出てくるわけです。豪族たちが認めたのがなぜだったかという話もよく分かりません。大体「継体」という名前が既にわざとらしさを感じさせます。

光仁天皇(49代)

天武系の称徳天皇が没した後に、天智系から連れてきた天皇です。天智天皇の三世ですが、天武系(の男系)とはほとんど血のつながりが薄いと言えます。

後花園天皇(102代)

後小松天皇は息子の称光天皇を即位させましたが死没、次を南朝側から出すことも求められましたが、北朝系で遠縁の後花園天皇を即位させています。これは称光天皇の曾祖父の兄(崇光天皇)のひ孫にあたります。

後花園天皇伏見宮家から迎えられた人物です。

光格天皇(119代)

東山天皇の後、中御門天皇から四代の天皇が継ぎましたが、後桃園天皇で絶えてしまいます。ここで東山天皇の息子が創設した閑院宮家から光格天皇を迎えました。東山天皇のひ孫に当たります。

この光格天皇の系列が現在の天皇につながるものです。

宮家

伏見宮家と閑院宮家が出てきましたので、一応簡単に説明しておきますと、皇族には世襲親王家というのがありました。

これらの宮家は、非常に古くに現在の皇統と分かれております。伏見宮家の系列以外は男系で断絶しております。もとをたどれば(現在の天皇を含めて)全ては伏見宮系ですが、それが途中で分離して他の三つの宮家ができています。

崇光天皇┬…┬伏見宮系全て(現在に至る)
     │ └後花園天皇─…正親町天皇─○┬後陽成天皇─┬…─東山天皇───┬天皇家(断絶)
     └天皇家(断絶)          └桂宮家(断絶)└有栖川宮家(断絶) └閑院宮家─…─光格天皇─…─現在(現在に至る)

これらの系列の宮家以外では、昭和天皇の系列で、秩父宮家、高松宮家、三笠宮家、常陸宮家、高円宮家、桂宮*1秋篠宮家となります。既に断絶しているものもあり、また、断絶が目に見えているものもあります。さらに、現在の直系からは既に男子が出ず、なお女系を認めないならば、秋篠宮家(文仁悠仁)から迎えるということになります。これは上で挙げた、後花園、光格と、もう一つの例であった後西*2に次ぐ宮家からの即位の四例目となります。

伏見宮

現存する宮家は昭和天皇の系列ですが、1947年に皇籍離脱した伏見宮家系の宮家は多数あります。この伏見宮というのは崇光天皇の系列であり、先に出てきた後花園天皇伏見宮家出身です。後花園天皇の即位後、伏見宮は弟が継ぎ、現在までたどられているのです。この崇光天皇というのは650年ほど前の方ですし、後花園天皇からいっても550年ほど前ということになります。

明治以降に、伏見宮系から多数の宮家が創設されました*3のです。

復帰はあるのか?

昭和天皇に連なる宮家を除けば、旧宮家で男系が存続するのは伏見宮系のみといえるので、天皇家存続のために復活させろという話もあります*4

久邇宮家から香淳皇后が出ている、東久邇宮家は昭和天皇の娘が嫁いでいるといったこともあわせて、このあたりを復帰させるべしという説を唱える人もいます。

しかし、先に書きましたように、「男系」としては、室町時代までさかのぼりますので、「それってどうなの?」と思う人もやはり多いのです。また、「そもそもたくさん候補がいるのに、どうやって選ぶんですか?」という問題もあります。現実的には難しい面が多いのではないでしょうか?

*1:世襲親王家とは関係ない

*2:有栖川宮家からの即位。本人は有栖川宮家の養子であったが、先代の後光明天皇の弟でもある。

*3:具体的には梨本宮、東伏見宮山階宮久邇宮賀陽宮竹田宮朝香宮東久邇宮北白川宮です。

*4:具体的に、断絶しそうにないところは、久邇宮家、賀陽宮家、竹田宮家、朝香宮家、東久邇宮家となります。